ぜったいに勤めたくないのだ症候群

人間嫌いのゆるい躁鬱持ちが引きこもりつつなんとか頑張るブログ

それでも死こそがリアルだ

 

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メンヘラ.jpの印象的な投稿

 先週から奮起して翻訳関係の新しい仕事に複数応募したが、なしのつぶてでいっこうに返信がなく、今は自己肯定感が底辺をさまよっている。やはり社会人経験のない自分ではスキルを積んでも何の意味もないのだ。自分は社会から一切必要とされることはない。むしろお荷物として憎まれて殺される前に自殺しなければ……そういう、20代前半から繰り返してきたお決まりの思考が頭の中をかけめぐる。そんな中、「メンヘラのつながりづくり」を目指して作られたメディア、メンヘラ.jpに掲載されたある文章が目に留まった。

 

menhera.jp

「死にたい」を日常とする人々が世の中には存在しています。

わたしにとって、「死にたい」は三大欲求の 延長線上に存在していて、お腹が空いたから何か食べたいだとか、眠いから寝たいだとかと同じように、死にたいから死にたいのです。一番幸せなのは眠っていて夢も見ていない、完全に意識のない時だと感じます。

 エヌさんという女性が綴るこの「死にたいのが日常」という感覚は、僕にとっても深く馴染みのあるものだった。僕も大学生のころから、24時間365日死のことを考えていた。綿密な自殺計画をくり返し立てた。留学中は何度か「明日になってもこんなに苦しいままなら、深夜バスに乗って町はずれの崖のある場所まで行き、そこから身投げすることにしよう」と決意した夜があった。人生でいちばん精神が不安定だった10年前、1度は飛び降りようと思って大学内で一番高い建物の屋上まで行き、「うまくいけばいいけど、失敗したら半身不随だな」と思い至ってやめた。1度は部屋にあったあらゆる薬(向精神薬から風邪薬まで)を料理酒と一緒に飲んで意識を失い、吐しゃ物の中で目を覚ました。

 勉強をしていても、仕事をしていても、映画を見ていても、列車に乗っていても、僕の意識の根底にはつねに死が横たわっている。

死を恐怖した幼少期

 思えば、子供のころから死への意識が常に日常の裏側に潜んでいた。5歳か6歳のころ、僕は突然、人間はいつか死ぬのだということに思い至った。そして子供なりに死についてじっと考えた。それは眠りに似ているが、目を覚ますことは永遠にない。何も見えず、何も聞こえない。それだけではなく「何も見えず、何も聞こえない」と意識する自分自身すら存在しない。幼い僕はそうした想像がもたらす深い虚無感に打ちのめされ、いやだ、死ぬのは怖い、と思って毎日泣いていた。でも、いくら怖くたって死は避けようもなくやってくる。楽しい夏休みがいつか終わるのと同じだ。

 仏教徒だった母は、死の恐怖にとりつかれた僕の様子を見かねてこんな話をしてくれた。人間は必ず生まれ変わるものだ。たとえ身体が死んでも魂は残り、また新しい別の赤ん坊に宿って生まれてくる。前世の記憶はないけれど、それは紛れもなく同じ魂だ。輪廻転生を子供に想像しやすいようにアレンジした母の物語は、束の間僕を安心させてくれた。しかしそれもすぐに信じられなくなってしまった。というのも、小学校の図書館にあった子供向けの科学書に、地球はあと何十億年かしたら膨張した太陽に飲み込まれて跡形もなくなると書かれていたからだ。そればかりか宇宙そのものさえ、最期にはあらゆる物質が静止する「熱的死」を迎えるらしい。そうなってしまえば、僕が生まれ変わってこられる場所なんかどこにもないじゃないか。

死こそがリアルだという意識

 子供のころに感じた死へのこの恐怖の念は、ほとんど畏怖に近いものだった。それは子供の頭で想像できる究極の虚無であるだけではなく、どんなにえらい大人も、金持ちも政治家も、果ては惑星や宇宙でさえ、絶対に逃れることのできない終焉だ。死を意識することは、ある意味ではとんでもなく偉大なものに触れる経験でさえあったと思う。

 この畏怖に似た恐怖の感覚は、年を重ねるにつれてゆるやかな希死念慮へ、上に紹介したテキストでエヌさんが語るところの「心の基盤に重く横たわった不透明な死にたさがすべての幸せの足元を掬っていくような、すべての幸せが宙に浮いたまま、根を生やすことができないような」状態へと変質していった。僕がこうやって生きて活動しているほうが実は例外的な事態なのではないか。死ぬことよりも、生きていることのほうがずっと不条理なのではないか。生きていることは何かの間違いであり、死んだ状態のほうがこの世界の道理にかなっているのではないか。しかも僕は社会不適合者だ。いなくなっても誰も気にしやしない。むしろ存在しているだけで人に迷惑をかけるくらいだ。そんなふうに思うようになった。失敗やへまをするたびに「ああ僕は死んだほうがいいんだな、やっぱり」と、特に悲しくも怖くもなく淡々とそう思ってしまうようになった。

「死にたい」と、わたしたちのように当たり前に思うことのない大多数の人々の中で生きること、つまり死をタブーとする社会の中で生きるということ は、精神的に監獄の中にいるようなものです。「眠い」と同じように「死にたい」などとは言うことのできない空気の中で息をし続けることは、呼吸をしている のに窒息しそうな矛盾感や閉塞感を生み出します。

「死にたい」まま「生きる」こと。これがどれほど苦しいか。生き地獄です。真綿で自分の首を絞め続けるような、たまたま引いた外れくじのひどい罰が無期限有効みたいな。だってそこに、そうなろうとしたわたしの意志はありません。

 エヌさんの書くこの感覚はほんとうによくわかる。「死にたい」が日常である人間は、たとえ何か嬉しい、楽しいことを経験しても、根っこのところで自分の存在を肯定することができない。それにこの感覚は、言葉にしてしまえばいわゆる「甘え」の表現にしかならない。「駄目な僕なんか死んだ方がいい」なんて、他人に開示するにはかなり最悪な言葉だ。だからこそ、この息苦しさはどこにも持って行きようがない。

友人の自死と恋人の影響

 僕の友人には一人だけ自殺した人がいる(この人のことはまた今度、別のエントリで書こうと思う)。その人が死んだことは本当に衝撃的だったし、未だに自分の中でもうまく整理がついていない。僕に何かできることはなかったのかと、自問自答を今でもたまに繰り返す。でも、だからといって僕の希死念慮がましになったのか、「生きたかったはずの友達の分も生きなければ」などと思うようになったのかというと、実はそんなことは全くなかった。自分にとっても意外だったし、罪悪感さえ抱えているくらいだが――それでも、僕にとっての全世界の根幹である僕自身の死と、僕の世界の一部であった友人の死は、同じ「死」と呼ばれるものであっても、やはり全く別の事象に感じられる。

 むしろ僕の希死念慮をゆるめたのは恋人だったかもしれない。毎週末、顔を合わせるたびにうれしそうな表情を見せる恋人。「僕がいなくなったら、この人は深く打ちのめされるだろうな」と思わせるただ一人の存在。この人と付き合い始めてから、希死念慮がある時間は24時間365日から、1日6時間平日のみ、くらいに減ってきたような気がする。

 それでも、僕にとっての死のリアリティ自体はあまり変わっていない。もしこの先いつか恋人と別れてしまったら、また24時間365日死のことを考えるようになるんだろう。

50歳で死のうという決意

 僕は50歳になった時点で仕事も伴侶もいなかったら自殺すると決めている。去年までは40歳に設定していたのだが、好きだったライターの雨宮まみさんが実際に40歳で死んでしまったので、少し引き伸ばした(著書の中であれほど人に生きるよう励ましていた書き手と同じ年で死ぬのは、なんとなく気がひけたのだ)。いずれにせよ、僕は子供を産むつもりがない。育てるべき子供を持たず、今の恋人のような存在もおらず、達成するべきプロジェクトも特にないとなれば、身体が動かなくなり、頭が固くなり、顔かたちも醜くなるのに耐える必然性はどこにもない。わざわざ生を引き延ばして老いる理由など何もない。

 恐らくふつうの人にとっては、生こそが道理で、死は常に不条理に襲い来るものだろう。大きな災害などのニュースに直面すると、ことのほかそれを感じる。しかし「死にたい」が日常の僕にとっては、生は不条理で、死こそが道理だ。これからもしばらくは、確固とした死をつねに視野の片隅にとらえたままで、不条理に生きてゆくだろう。

今後の目標について

「対人恐怖の躁鬱持ちがなんとかやっていくブログ」ということで始めたのに、全然「なんとかやっていく」記録をつけてない。このところ体調があんまりよくなくて、まとまった記事も書けそうにないし、将来について考えていることをとりあえずは書き留めておく。

1.収入を増やす

いちばん即物的な話。今はクラウドソーシングの翻訳の仕事が約15万円あるから、これを月20万円に増やしたい。具体的には

  • SEO対策された記事量産以外で、Webライティングの仕事を見つける

リーダビリティがそれなりに高い文章が書ける、英語がそれなりにできる、ということしか今は能がないので、やっぱりWebライティングの仕事をしてみたい。

 一時期クラウドワークスに登録してたんだけど、集客と広告収入「だけ」を目的にしたなんちゃってWebメディアの記事を量産する仕事がすごく多かった。一度だけ翻訳の仕事がすごく少なかった月に焦って受けたことがある。本質的にはAIに文章を生成させる形で事足りる仕事を、技術やアフィリエイトプログラムの規約の都合上人力でコピペなしでやっているというだけだから、内容へのフィードバックとかは一切なし。それでも単語の規制も細かいし、要求される文字数も多いし、記事に関連する外部SNSの投稿を引っ張ってこなくちゃいけないから地味に時間がかかる。1記事どうしても3時間かかってしまう。で、報酬単位は1300円/記事くらい。かけた時間に見合うお金もスキルもつかないから、結局すぐにやめてしまった。

探してみたら、企業向けのオウンドメディア構築サービスを提供しているイノーバが、ライターをPenyaっていうサイトで募集していて、トライアルがあるので受けてみようと思っている。トライアルがあるぶん、もし受かればきちんとした仕事がもらえそうだ。

  • 個人で翻訳の仕事を取ってこれるようにする

とりあえずフリーランス翻訳者サイトには登録してるんだけど、何の資格もないし専門分野も載せてないから、当然ながら仕事はこない。参考訳例を作ってポートフォリオの充実を図らなくちゃならないんだけど、実は今活動しているサイト経由でもらった仕事は、ポートフォリオにすることが禁じられている。著作権フリーで訳例に使えそうな英文を探さなくては。

後は専門分野を絞って明示しなくちゃいけない。僕の場合はこれまでの仕事の傾向からマーケティング、IT、広告、Web記事、そして社会心理学を大学で専攻していたから心理学関係のアカデミックな記事…。

2.スキルをつける

クラウドソーシングでできるようなジェネラルな翻訳って、AIの台頭でこれからますます需要が減っていくはず。僕には専門的知識は何一つないので、考えられるのは翻訳+αの組み合わせで何らかの価値を提供できる人間になることだ。とすると、他にどんなスキルがあるといいだろう?

イラストが少し描けるし、友達の同人誌だけどブックデザインをやった経験もあるのえ、もしかしたらデザインのスキルが伸ばせるかもしれない。とりあえずAdobe Illustrator CCのライセンスを取っていじくっている。あとは近いうちにCodeacademyでHTMLの復習も始めようかなと。

将来的には、バイリンガルのパンフレット制作やWebローカライズを個人で請け負ったりできたらいいかなあと思っている。

もちろん、当然ながら英語と翻訳のスキルアップが必要で、今は翻訳の通信講座を受けている。あれこれはじめる前に、まずはこれを完走しなくちゃならない。

3.生産者になる。

子供の頃からずっと消費者だったから、生産者の位置に立つことが夢だ。つまり、自分で書いた文章や自分で作ったプロダクトを自分で売りたい。自分で書いたものを売る、というと一番手っ取り早そうなのが noteなんだけれど、問題はどういう文章なら売れるのか、ということ。つまり、誰に向けた、どういう内容なら、僕の力で直接お金を払ってもらうだけの価値を提示できるんだろう? この問題にある程度、自信のある答えを出せないといけない。

ちなみにこのブログは、僕の文章を読んでくれる人をゼロから掘り起こす実験として始めたものでもある。ブロガーの人みたいに「今月のPV」とか言って紹介するほどじゃ全くないんだけれど、ちょっぴりずつだけどPVも上がって来たし、感想を下さる方もいらっしゃってとてもうれしい。

就職した方がいいのはわかってる、でも

ゆっくりとでいいから、自分の手で仕事を作って回していけるようになったらいいなあ。本当は企業に就職できれば一番いい、という気持ちは、正直ある。フリーランスとしての道を探るといっても、結局は企業で働いている人がお客様になるわけだから、ぽっと出でフリーになった人間よりは企業での仕事の流れを知っている人間の方が依頼しやすいんじゃないかと思うし。それでもこのブログは何といっても「ぜったいに勤めたくないのだ症候群」だし、前の記事で書いたようにはっきりいって体調も精神も安定しない今の自分の状況で、まっすぐ就職を目指すのは悪手じゃないかという気持ちの方が強い。とりあえずは細々とでも収入があるのだから、いまの間に自分ができることを広げてゆく努力をしたい。

「ガイジン」との接し方がわからない僕たち

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僕は大学在学中、交換留学プログラムでヨーロッパのある国に1年滞在していたことがある。(上はその遠足でクラクフに行ったときの写真だ)

「ガイジン」にだけ失礼なふつうの人々

そのときのいちばん安いチケットは中華航空のもので、上海で乗り継ぎの飛行機におっかなびっくり搭乗したら、僕の席におばちゃんが座っていた。どうやら日本人っぽいけど、なにせ上海から出るヨーロッパ行きの便だし、微妙に確信が持てない。だからとりあえず英語で"Excuse me..."って話しかけたら、おばちゃんはじっとこっちを見て「アカンかってんや」と小さく独り言を言って、僕には何一つ言葉をかけずにそそくさと立ち去って行った。「マナーにうるさい国なのに、日本語が話せない (と思われた) 相手にはここまで失礼になる日本人がいるのか」とこの時は本当に衝撃を受けた。

留学中にはこんなこともあった。夜、学生寮の僕の部屋の前の廊下で、白人の若い男の子たちがものすごく騒いでいた。僕のルームメイトは東京から来た社会人学生の人で、ものすごく良い家の出で、お金持ちで、礼儀正しく品の良い人だった。その人が白人の男の子たちに向かって、日本語で「何をやっとんじゃコラァァァァ!」と怒鳴りつけた。男の子たちは水を打ったようにしんと静まり返って、その場から立ち去った。

僕がびっくりしていると、その人はにっこりと笑って「ガイジンから嫌なことをされたときは言葉が話せなくても日本語でいいから強い態度に出ろ、っていうでしょ」と言った。いや、それは痴漢とか路上でつきまとわれるとか、そういう暴力的な「嫌なこと」をされたときの話だろう。自分たちがおしゃべりしているところに、いきなり横から入って来て知らない言葉でわめきちらされても、酔っ払いか薬物中毒だとか、変な人がいるとしか思われないんじゃないか。つたない英語でもいいから (交換留学の審査にパスしたのだから、その人は日常会話程度なら英語ができるはずだった) 丁寧に話しかけて、静かにしてほしいと頼むほうがいいんじゃないか。それではぐらかされたり、無視されたら、その時に怒ればいいんじゃないか。遠くの方からまた男の子たちのにぎやかな笑い声が聞こえてきた。

「ガイジン」にちぐはぐな態度を取る人は日本国内でも見たことがあって、例えば僕の恋人はオーストラリア人なんだけど、一緒に歩いているとたまに子供や学生から「あ、ガイジンや」と指差されることがある。こっちに丸聞こえだし、今やインターネットを介して多くの人が日本語の差別用語として「ガイジン」という言葉を知っているのに。まるで彼を生身の人間ではなく、テレビ画面の中の白人だと思っているような態度だ。

相手を人間だと思えない?

世界一礼儀正しいとか、マナーに厳しいとか言われているはずの日本人の中に、外国人に対して(だけ)こんなに失礼になる人がいるのはどうしてだろう。どうも一部の人は極端な言い方をすれば、日本人以外を心の底では人間だと認識できていないようなのだ。肌の色や目の色の違う相手を、コミュニケーション可能な存在だと思えない。だから目の前に人間がいるのに、ちぐはぐで失礼な対応しかできない。

もちろん、外国人観光客の人に丁寧に道を教える人もたくさん見たことがあるから、そんな人ばかりだとは思わない。観光で来た人なら、そんな風に親切にしてもらえることの方が多いんじゃないかと思う。でも例えば (特に対話や議論の文化が根付いている国から) 日本に移り住んだ人が、長く住むにつれ上述したような体験を重ねていけば「日本人はコミュ障が多いな」くらいに思われかねないんじゃないか。現にRedditとか英語圏のネットコミュニティを見ると、日本は世界有数のゼノフォビックな国、というイメージは着実に浸透しつつあるようだし。オリンピックに向けて外国人観光客を「おもてなし」なんて言っているのは、つくづくむなしいキャンペーンだと思う。

対外国人限定の「コミュ障」

でも僕自身コミュ障だから、どう対応していいかわからない相手に対してちぐはぐな態度を取ってしまう感覚はすごくよくわかる。僕の場合は、自分の言葉が他の人間に通じるという確信がそもそも持てないから、僕のコミュ障は相手の国籍に関わらずわりとユニバーサルに発揮されるんだけど、やっぱり日本語が通じない相手だとさらに立ち回りが難しくなる。だから、自分の発言は他人に通じて当然だと確信しているふつうの人が、話す言語の違う相手に会ったときにコミュ障っぷりを発揮するのは、すごく自然なことだと思う。

コミュ障は自覚して訓練すればある程度なんとかなる。たとえ訓練できなくたって、自覚さえすれば地雷を踏む確率は減る。外国人をためらいなく「ガイジン」と呼び、ちぐはぐで失礼な態度を取る人が、自分はいわば対外国人限定コミュ障なんだと、とりあえずは自覚できる日が来ればいいのになと思う。あとインバウンド政策を進める政府担当者には、英語教育の充実を図るだけじゃなく、ぜひ「外国人に対してのみ人見知りになる人をどうサポートするか」という視点を持ってほしいなと思う。

ぱぷりこ『なぜ幸せな恋愛、結婚につながらないのか』-人間関係の困難さと、武器としての内省

人間関係分析みたいな本がわりと好きで、よく読んでいる。最近はぱぷりこさんの『なぜ幸せな恋愛、結婚につながらないのか』を読んだ。男女関係に精通した外資系OLという立場を活かして不幸な恋愛のケーススタディを行い、はてなブログから書籍を出した人だ。

 

なぜ幸せな恋愛・結婚につながらないのか 18の妖怪女子ウォッチ

なぜ幸せな恋愛・結婚につながらないのか 18の妖怪女子ウォッチ

 

実は2年くらい前からこの人のひっそりしたファンだった。この人の言語感覚はすごく独特で、「実在」のことをなぜか常に「実存」と書く*1し、「キラキラ粉飾」「メンタル闇落ち」「お焚き上げ」などキッチュな造語がどんどん出てくる。でも文体はすごくリズミカルで読みやすい。単語選択の独特さと明瞭な文体のバランスが本当に絶妙で、読み始めると止まらなくなる。御本人が「筆圧が強い」と表現されている文章のスタイルは、主張が強いのにすごく魅力的だ。「実在」を「実存」と書いているのも、やっぱりそのほうが強そうだし「筆圧」に釣り合ってる感じがする。ブログでもその文体の魅力は充分堪能できる。ちなみに僕はnoteにも課金した。

papuriko.hatenablog.com

『なぜ幸せな恋愛・結婚につながらないのか』は、不幸な恋愛の泥沼にはまってしまう女性たちの特徴とキャラクターを分類・分析した本だ。傷つくことをおそれて受け身を貫いてしまう「地蔵の女王」(いわゆる奥手の人)、理想のために戦略的に他人を利用して楽しく暮らすけど真の充足は得られない「強欲の女王」(キラキラ系)、理想が高すぎて相手と安定した関係を築けない「迷走の女王」、願望や不安が先走りすぎて状況を客観的に見られない「妄想の女王」(「メンヘラ女子」と呼ばれるタイプはここに当てはまると思う)、不誠実な相手、場合によってはサイコパス傾向さえあるような男に利用されてしまう「餌の女王」の5つの大分類に基づいてさまざまな女性像が検討される。ずっと恋愛相談ばかりしていて人の話を聞かない「恋愛相談マニア女子」、「ときめき」にこだわりすぎてうまく相手との関係を継続できない「ときめき至上主義女子」、モテるし彼氏が途絶えることもないのに、相手を一切思いやらず自己肯定のために利用し続ける「恋心の搾取モテ女子」などなど。世の中にはこんなにいろんな泥沼恋愛模様があるのかと思えて面白い。

でも結局、この本で扱われているタイプの人に共通するのは、主体性が欠けていること、そして自分の欲望の内実を自分で把握できていないこと。この本のメッセージは結局、「女たちよ、幸せになりたいなら主体性を持とう、状況を客観視しよう、内省しよう」ということだ。僕は主体性と内省だけでどうにかここまで生き延びてきたような人間だから、ぱぷりこさんのこのメッセージはけっこう力強く感じられるというか、自分は大きくは間違えていなかったんだと思える。

僕も恋愛運は全然なかった。20歳を越えるまで恋人がいたことは一度もなかったし、その後はいい感じになって1回セックスしたらうやむやになって別れる、ということを立て続けに5人と繰り返した。僕は妖怪女*2だったろうか? 本書に挙げられているどのタイプにもちょっと当てはまるし、ちょっと当てはまらない部分もある。でも一つ言えるのは、僕は人間関係を楽しみとして消費する人の存在を20歳超えるまで知らなかったということだ。僕にとって人間関係は、付き合いが浅い場合はつねに「どうやってお互いにとってすっきりとした気持ちのよいコミュニケーションを成立させるか」「どうやって相手の面白いところを知っていくか」という鍛錬だし、付き合いが深ければ「お互いを尊敬しあう、困ったときにお互いを助け合う、いたわり合う、気づかい合う」というものだ。「楽しい時だけ一緒にいて、てきとうなことを言い合って、てきとうにセックスして、つまんなくなったり面倒になったら切る」という消費的な人間関係は一部のサイコパスだけの慣習だと思っていたのだ。だからものすごく戸惑ったし、傷ついたし、あと相手のこともたぶんすごく戸惑わせたと思う。

この経験は僕の対人恐怖と被害者意識を補強した部分もあったけど、同時に「僕にとって人間関係は消費的な物ではないのだ、消費的な人間関係には耐えられないのだ、だからうまく立ち回る術を学ばなくちゃならない」ということをはっきりと気づかせてくれた。ところで、こういう気づきができたのは自分が内省型の人間で、完全な「妖怪女」になっていなかったからなんだろうと思う。「考えすぎは毒になる」と言う人は多いけれど、実際のところ、内省は人生をなんとかやっていく武器になるはずだ。特に不安が強い内向的な人間にとっては。

*1:「実存」という表現が日本語に登場したのは、多分サルトルの実存主義の紹介が最初だと思う。でも、実存主義の基盤はやっぱり自己の強烈な存在の感覚だから、ぱぷりこさんが他人に対して「実存」の語を使っているのは最初は違和感があった。

*2:今後恋愛関係のエントリも書きたいので一度はっきりさせておくが、自分はヘテロセクシュアルの女性だ。日常生活とこのブログ(とここに紐づいたツイッターアカウント)以外のネット上では「私」を使っている。ここで「僕」を使っているのは、実際と逆のジェンダーの一人称を使うとブログ向けに意識を切り替えやすくなるいうこと、それから「ぼく」はシラブルが2つしかないので文章のリズムを整えやすいというテクニカルな都合による。

僕のことを必要とする会社など、どこにもない。

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朝井リョウの『何者』という小説が好きだ。読んだのはもうずいぶん前だけれど。

「とにかく何者かになりたい」「自分が何者なのかを知りたい」という焦りと衝動に、突き動かされて就活に走る学生たちのあの感覚が、すごく克明に描かれている。主人公が何か問題に直面した時や気持ちが揺らいだ時に「肩がこわばる」とう描写が何度も出てきて、その身体の感覚もものすごくリアルだった。

 

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

(でもなんとなく体力を使いそうで映画は見ていない。日本の映画はなんだか演出が押しつけがましいような作品が多い感じがして苦手意識が強い。単に外ればっかり引いてるのかもしれないけど。)

さて、僕はもともと「何者かになんかならなくてもいい。そのために自分が好きでもない、興味もないことをしなくちゃならないなんて苦痛だ」と思っているほうだった。でも実際のところ、何者にもなれない人、というか、自分が何者であるかを堂々とクリアカットに表明できない人間に対して、会社組織を中心とした世間は厳しい。

たとえ大した蓄積や人格がなくたって、就職活動ゲームのルールに則り、堂々と胸を張って「自分はこれこれこういう、いっぱしの者である」と言い切る。たとえそんなに教養や知識がなくても、面接の席では「自分はしっかりと物を分かっている」という態度を取る。そしてさらに「自分はいっぱしの人間だ」と自らしっかりと思い込める。良い「人材」として好まれるのはそういう人だ。自分の興味やエゴを優先させることなく、しっかりと場のルールに従い、堂々とした立ち居振る舞いができる人間。そういう人間と関わるのは、なんといっても心理的なコストがかからない。わかりやすくて安心できる。僕にとっても、そういう人はすごく付き合いやすい。誰にとってもそうだろう。会社組織はチームで業務を回していくのが使命なんだから、まず付き合うのに心理的なコストがかかる人間を受け入れることはできない。それはとても合理的なことだ。

僕は基本的に、他人に対してはかなりの心理的コストをかけさせてしまう人間だと思う。協調性に関してはけっこう頑張ってきたつもりなんだけれど、やっぱり根が神経質だし、躁鬱だし、対人恐怖だって強まる一方だ。また先述したように、興味が持てないことにはどうしてもうまく取り組めなくて後回しにしてしまうのも問題だ。さらに大学生の頃は「自分とは何か」とか哲学的な理屈ばかりをグダグダと考えてしまって、「僕はこういう人間です」というプレゼンをすることもできなかった(今はそれなりに腹をくくって表明できるようになっているが)。

あとは何といっても体力がない。体力のない人を使いたがる組織なんてない。

そういうわけで、僕のことを社員として必要とする会社はどこにもない、というところからまずは出発しなければいけない。けれども幸い、僕個人の技能を必要としてくれる個人はぼちぼち見つけられている。僕という個人を必要としてくれる人も存在する。大げさな言い方をすれば、僕は社会から必要とされることはないタイプの人間なんだけれど、個人同士の関係性を築くことはそれなりにできる人間だ。そこからなんとか可能性を広げていけたらと思う。

ふつうの人がこわいから、社会の外で暮らしたい

 

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利用しているクレジットカード会社から電話がかかって来た。「すぴんどる様にご案内がありましてお電話させて頂いたのですが」。ご案内ってなんだろう。十中八九保険や金融商品の勧誘だと思うけれど、もしかしたら「あなたのカードに不正利用が疑われる件のご案内」かもしれない。思わず「え、な、何か、問題でも、ありましたか」と、混乱がありありと現れたいかにもコミュ障っぽいせりふを返してしまう。女性オペレーターはとても暖かく柔らかい口調で「問題ではございません。本日はですね、すぴんどる様に当社の医療保険のご案内をさせて頂きたいと思いまして」。

どうしてみんなこんなにわかりにくい言葉を使うのか。嘘でもないけど正確でもない、ふんわりとした言葉で飾られた商品やサービスの「ご案内」。自分にそれが必要なのか不必要なのかもよくわからない僕に、あなたは優しい口調で「今の人生、不安ですよね、よくわかります、ぜひあなたのためを思って」とたたみかけてくる。僕の世界一の理解者のようなあなたの態度と声色は、あなたの会社に教え込まれたテクニック。あなたの頭の中にあるのは、今月の目標数値を達成するために僕をどう使うかということ。

「ふつうの人」が恐ろしくてたまらない。きちんとした企業に勤めて、きちんとしたお給料をもらい、生活の大部分を会社に捧げ、自分が多数派で、正常で、常識ある人間だと思っている、ふつうの人。そのくせ、路上で人にぶつかっても謝りもしない、ふつうの人。他人を、自分にどういう利益をもたらしてくれるか、どれだけ自分の気分を良くしてくれるかというだけの基準で評価する、ふつうの人。優しく、気遣いのある振る舞いと柔和な態度でいながら、実のところ自分が世間でどう評価されるかにしか興味がなく、他人の人生や内面には一切の関心を示さない、ふつうの人。「あいつは怠惰だから罰を受けるべきなんだ」と自分を正当化しながら、いやむしろ、自分こそが正義だと心から信じ込んで、弱く問題を抱えた他人に精神的な暴力を振るうことにためらいさえ覚えない、ふつうの人。美しく、優しく、正しく、残酷な、ふつうの人。

ふつうの人が怖い、ふつうの人が集まる場所から離れて暮らしたい、と強く思うようになって、なんとか独りでもお金をかせいで暮らせる方法を模索している。

大学は出たし、長期の留学の経験もあるんだけれど、「正社員経験」という意味での社会人経験は、ない。躁鬱と、上述したような少し妄想的な対人恐怖があって、実家にこもりがちだ。家賃代わりに、社会人院生の母親と会社員の父親に英語を教えてる。学生の頃からちょっとずつバイトをして、貯金は30万くらい。少額だけど暗号通貨も持ってる。今はクラウドソーシングで翻訳の仕事をしていて、月に15万円前後の収入がある。自分で言うのもなんだけれど、品質レビューの成績もいいし、依頼者からのフィードバックも良くて、指名で繰り返し仕事をくれる人もいる。(でも、クラウドソーシングだから依頼者と個人契約ができない。システムの規約で、翻訳した内容をポートフォリオにすることもできない。なんとか個人で仕事を取れるようになりたいんだけど。)

信頼できるひとは、1年付き合っている恋人と、片手で足りるくらいのふるい友人たち。親は立派な人間で、尊敬しているし感謝しているけれど、母のほうは僕のことを全く理解しないまま「すぴんどるの最良の人生のモデルを私が示してあげる」という態度でいるから、ときどき殺したいと思うことがある。父は年季の入った内気なアニメオタク だから、どちらかというと僕にとっては戦友のように感じられる。

人嫌いを治そうと躍起になったこともあるんだけれど、最近はむしろ、組織に勤めずに、今あるリソースをどう広げて回していけるか、ということを考えるようになった。そのための試行錯誤の記録をつけようと、こうやってブログを始めることにした。あとから自分で読み返すため、考えを整理するため。それから、僕と同じように人や社会への恐怖を感じている人の励みに、少しでもなればいいと思う。