ぜったいに勤めたくないのだ症候群

人間嫌いのゆるい躁鬱持ちが引きこもりつつなんとか頑張るブログ

僕のことを必要とする会社など、どこにもない。

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朝井リョウの『何者』という小説が好きだ。読んだのはもうずいぶん前だけれど。

「とにかく何者かになりたい」「自分が何者なのかを知りたい」という焦りと衝動に、突き動かされて就活に走る学生たちのあの感覚が、すごく克明に描かれている。主人公が何か問題に直面した時や気持ちが揺らいだ時に「肩がこわばる」とう描写が何度も出てきて、その身体の感覚もものすごくリアルだった。

 

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

(でもなんとなく体力を使いそうで映画は見ていない。日本の映画はなんだか演出が押しつけがましいような作品が多い感じがして苦手意識が強い。単に外ればっかり引いてるのかもしれないけど。)

さて、僕はもともと「何者かになんかならなくてもいい。そのために自分が好きでもない、興味もないことをしなくちゃならないなんて苦痛だ」と思っているほうだった。でも実際のところ、何者にもなれない人、というか、自分が何者であるかを堂々とクリアカットに表明できない人間に対して、会社組織を中心とした世間は厳しい。

たとえ大した蓄積や人格がなくたって、就職活動ゲームのルールに則り、堂々と胸を張って「自分はこれこれこういう、いっぱしの者である」と言い切る。たとえそんなに教養や知識がなくても、面接の席では「自分はしっかりと物を分かっている」という態度を取る。そしてさらに「自分はいっぱしの人間だ」と自らしっかりと思い込める。良い「人材」として好まれるのはそういう人だ。自分の興味やエゴを優先させることなく、しっかりと場のルールに従い、堂々とした立ち居振る舞いができる人間。そういう人間と関わるのは、なんといっても心理的なコストがかからない。わかりやすくて安心できる。僕にとっても、そういう人はすごく付き合いやすい。誰にとってもそうだろう。会社組織はチームで業務を回していくのが使命なんだから、まず付き合うのに心理的なコストがかかる人間を受け入れることはできない。それはとても合理的なことだ。

僕は基本的に、他人に対してはかなりの心理的コストをかけさせてしまう人間だと思う。協調性に関してはけっこう頑張ってきたつもりなんだけれど、やっぱり根が神経質だし、躁鬱だし、対人恐怖だって強まる一方だ。また先述したように、興味が持てないことにはどうしてもうまく取り組めなくて後回しにしてしまうのも問題だ。さらに大学生の頃は「自分とは何か」とか哲学的な理屈ばかりをグダグダと考えてしまって、「僕はこういう人間です」というプレゼンをすることもできなかった(今はそれなりに腹をくくって表明できるようになっているが)。

あとは何といっても体力がない。体力のない人を使いたがる組織なんてない。

そういうわけで、僕のことを社員として必要とする会社はどこにもない、というところからまずは出発しなければいけない。けれども幸い、僕個人の技能を必要としてくれる個人はぼちぼち見つけられている。僕という個人を必要としてくれる人も存在する。大げさな言い方をすれば、僕は社会から必要とされることはないタイプの人間なんだけれど、個人同士の関係性を築くことはそれなりにできる人間だ。そこからなんとか可能性を広げていけたらと思う。